昭和49年08月31日 朝の御理解
御理解 第95節
『世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。』
宗教の持つ、言うならば目的というのは、人間が助かると言う事又は死後の安らぎ安心を願う、同時に子孫の繁栄をも説くというのが宗教者のいわば使命、宗教にはそのような内容を持った宗教でなからなければならないと思う。神様仏様と例えば拝む○○教○○宗とこういう、その究極の所は矢張り、人間が助かると言う事、同時に死後の安心、いうなら人間が死ぬると言う事を。思う時に恐ろしくて怖くて。
不安でならんと云うのじゃなくて、魂を磨いておけば、自ずと死生の安心あの世での助かり、安心をも頂けるんだということを教え。同時にそれが子孫までもその信心の徳というものが残って、繁栄が出来るのだ。そういう教え又そういう力を、持ってをる宗教でなからなければ、宗教の本当の値打はないと私は思う。どんなに高度な教えを持っておって、その教えによってです、例えば心が助かると云う事だけで、それにおかげが伴わない宗教は、もう宗教の値打ちはないと思う。
この世では仕方がないから、いうなら諦めです、この世は苦の世だから苦の世界だから、あの世では助かられる為に、信心をしておけと言った様な、宗教は宗教の値打ちはないと思う。この世で人間が助かる、自分の心が助かるだけではなくて、心が助かっていく状態でおかげは嫌といっても、付いてくると言った様なおかげ、そういう実力を持った宗教、この心の喜びを、この魂の清まりを思う時に、このまま魂の世界に入っても、これは安心だなとこのまま、極楽あの世に続いて行くんだと。
言う様な確信の持てれるような、信心であ、り宗教でなければならない、同時に教祖様が仰るように、あの世にも持って行かれこの世にも残ると仰る、子孫の繁栄を人間が願わない者はありません。そういう例えばおかげも頂けれるという証を、私共が立てて又次の者の信心の継承を願っていかなければならん、またそれをそういう風に実際と共に教えて行き、実際にあらわしていけれる、おかげを説くのが宗教、そうい風に思うてまいりますと、金光教ほどそれに当てはまった宗教はないように思うですね。
所がですね実際として果たして、金光教の信者が皆んな助かっておるか、現実助かり頂いておるか最近貧乏のない世界、争いの無い世界病気のない世界そういう世界に果たして住んでいるか、中々それは実際に頂いてないというなが本当のように思う。けれども合楽だけはそうではない合楽だけでは、それを教祖のみ教えを基にして貧乏の無い世界、病気のない世界争いの無い世界をです、現して行きつつあると言う事です。
そこで今日の御理解を「神を商法にしてはならぬ」と云っとられますが、そういうおかげを現し頂かせも切らずにです、例えば神様、この神様は素晴らしいと言う事は、私は云うなら空宣伝ですから、神を商法に使うとるのと同じだと思うですね。また世間では同じ宗教でも、日本の神社仏閣なんかでも、やっぱりそうですけれども、お守りさん効きもせんお守り様を出してから、多額の金を要求しておる。
この頃知らせて頂いたんですけれども、宮嶽さんですかね、なんかは自動車一台分のお祓いが六千円か七千円かそうですね。まあ何でも上がったから上がっているかもしれません、果たしてそれがそれだけのおかげが頂けるなら、兎も角として安いもんです一万円だしたっちゃ。けれどもそういう効果もないというか、がたもない物をがたあるように云うておるのがこれ商法です。お守り札を売るともそうです一枚いくらと、これは神を商法にしているようなもの。
「此の方は銭金では拝まん」それこそ「木の葉一枚でも、氏子が真心からもって供えるならば」とか又「おかげと、お供えものは付き物ではない」と云う風に教えておられる。沢山お供えするけん、おかげを頂くと言う事でもなければ、お供えは出来んでも氏子が真心から一心を持ってすればおかげのお取次をしてやる」と教祖様は仰っておられる。私は最近何か知らんもうとにかく、合楽の示現活動と言う様な事が、ねば叫ばれるようになって、皆さんが一生懸命お話をなさるお導きをなさる。
それでも毎日昼はそういう新たな、もうそれこそこれより難儀な事なかろうと言う様な、難儀な人にお話なさるから、難儀な人が沢山集まって来る、そういうそういう人達で賑おうておる、そういう人達に私は教えというものを説かない。まあこの25年間もう本当に和賀心にならせて頂く為には。「和らぎ賀ぶ心に、おかげがあると教えられるのだから、和らぎ賀ぶ心を頂くための、いうならば教えをあらゆる角度から、25年間説いてきた合楽では、ところが最近それを説かない、唯おかげのお取次をさせて頂くと言う事だけ、だから私自身が何かこう張り合いがない。
一生懸命信心を説いている時には、自分も一生懸命信心にならせて頂いて、自分の体験と頂く教えとを交えて、お話しとったけれども、この頃は唯合楽の信心を、今合楽での信心は示現活動、今日の御理解で云うならば、神を商法ではない合楽の場合、一切のおかげが頂けれると言う事を。いうなら「おかげの泉」を勧めるにしても「これは百円です、どうぞ買って読んでください、もし読んでから効果がなかったとか、まあ詰まらんと思われたら、この次百円お返ししますから。」
という位にして、宣伝をしておる現在、それだけで事実おかげを頂いている。「先月号だから今月号まだですか」と催促を受けるぐらいに、おかげを頂いている。遠隔地の方達なんかは、唯おかげの泉を、日に十回も十五回も読み返して、おかげを頂いておる。だから、信心ならんでん読みさえすれば、おかげ頂くとかね、お参りしてお願いさえすれば、おかげを頂くというような事ですから、教えというのをあんまり説かない。私はここん処に、信心の悩みをちよっと感ずるです。
「これでいいんだろうか」神様は「神が道を開く」と仰るんですから、私が努力しなくても私が教えを説かなくても、神様はもう上から下に流すような働きを、確かに見せてくださってあるのですから、骨が折れないけれど、「これでよかろうか」と言う様な感じすらする。合楽の信心の焦点を、どこに置いたらよいのだろうかいうならば、今合楽示現活動に参画さしてもろうて、その御用をすることだけでは、何か物足りない感じがするんです実際。25年間この事ばかりを説いてきたんですから。
おかげなんて、おかげおかげといわずに、信心を頂いておかげの受けものさえ出来れば、おかげは頂けるんだから、おかげの受けものを作れおかげの受けものは、自分の心が和らぎ賀ぶ心に愈々なっていく事だ」と言う様に説いてきた、もう徹頭徹尾説くいてきたんです、ところが最近そうじゃない。今は兎に角、熱と真で人を動かして行くという働きさえすれば、自分自身おかげが受けられるという時代、合楽熱と真この「まこと」というのは真という字じゃなくて「言ベンに成る」という字の誠です。
昨日も善導寺の原さんが「皆さんが合楽示現活動に熱中しとられる方々を見るとです、心に思うておりながら、ああゆう熱が出らんのはどういう訳だろうか」と悩んでおりますというのです、それこそ周囲をみわたすと難儀な人一杯、そういう人達を対象にして、一生懸命に合楽で今おかげを頂ける、事実を話してもらってる姿を見ると、それに参画さして下さいとお願いしとるにも拘わらず、そういう熱が出てこないというのはどういう訳じゃろうか」と。
合楽の方々の場合、大体そういう人が1番多いようです、私はこうやって一生懸命そのことばっかり云うておるから、「どうぞ参画させてください、示現活動をさせてくだっさい」と願っているけれども。実際は人に云うてでも回る話がまわる、と言った様な人を動かす程しの、いうならば心が湧いてこないというのは、どういう訳だろうか」と悩んでおられるか方は、原さんだけではなかろう。
けども今は熱と誠まことという字は「ゴンベンに成る」というと言う事ですね、それを云うておる事が、成就するという意味なんです「熱と誠」というのは、誠だけではいけんのです、熱がなからなければいけんのです、そこん所を、皆んなが悩んどられるようにおもうです。いうならば、原さん程しの、熱心な信心を長年しておられて、それこそ言わば、熱意を持っておられるはずの原さんが、まぁだ人にお話しをして回る、お導きをして回るといったような。
心が動かないと云う事は、そう言う事では、人を動かす事とは出来ない。そこん処に一つ、お互い工夫しなければなりません、まあそれは今日のお話の眼目ではないですけれども。私が思う所です、それだけでよいだろうか、やっぱり金光教の信心といやぁ天地書附、いわゆる「おかげは和賀心にあり」と教えられるから、」その和賀心を、いよいよ追求していくとう言う事の、教えやらヒントやらは、与えんでもいいのだろうか、私は思わして頂いています。
そんなこと思わして頂いてたら、御神願にテレビでコマーシャルやってます、何とかという炊飯器のご飯、電気釜の宣伝をやってるのがあります。「私はハワイの何とか牧場に来ております、いうならば、ハワイに行った邦人日本の方が、大変成功された家に行っている、広々とした牧場が画面に映ります、そして団欒というか、お食事をされてそして炊飯器で炊いて、いつもぽかぽかして、暖かいご飯を頂かれている。
家族中の方達が、儲けた家族は違う、見んな福福しい画面に出てくる家族の、皆さんもご覧になるでしょう、あの場面を頂くんです。25年間一生懸命おかげを頂くというよりも、信心を頂くと言う事に、一生懸命に神様がなって下さった、力さえ頂けば光さえ頂けばと言う事であった、又それで本当に有り難いと思うておる、光が出来てくりゃ出来ただけおかげも頂いて来た。所が25年間そういう生き方であったのが、俄然合楽をいうならば宣伝する、いわゆる示現活動と言う事になってきた。
いうならばそれは、天地の親神様がです、只今合楽教会に来ておりますと言う事ではなかろうか。今までは冷たい冷ご飯、頂いているようなおかげからです、何時も炊きたてのぽかぽかのご飯が頂けると言う事は、素晴らしいおかげが、ママになると言う事なんです、ママご飯と云うこと、素晴らしいぽかぽかするようなご飯が頂ける、しかも朝炊いとけば夕方までポカポカしていると言う様な楽なんです、神様がそういう宣伝をそういう活動に移っておられる。
今いうならば、神様が「合楽に見えておられる、私は今合楽に来ている、なになに牧場に来ている、そして合楽の人達がこのような、ご飯を頂いて、もうそれこそ、あれもママにならんことはない、もう一切がママになる、云うならば極楽の生活を皆が送っておりますと云う事を、世界に宣伝をしておられる時だ。画面に出てくるその、じゃないですけれども、成る程あの福福しい姿と云うものは、おかげの実相というか、おかげをはっきり見せおるの処の、教会でなからなければならないと言う事。
同時にです神様が一生懸命になって、そして宣伝をしておられる、そこで私共が合楽にご神縁を頂いて、只今信心の稽古をさせて頂いている者がです、神様の宣伝に間違いのない相応しい、私共であらなければならないと言う事です。成程合楽のご信者さんは、おかげを頂きなさる筈だというものを、私は身に付けていかなければ、やっぱりして見ると、信心が芯になっておると云う事です。そこん処まで習うてきた。
その習うてきた事を、愈々実際の上に現して、接する人に福福しい何とはなしに親切、何とはなしにです、神心の強い人と思うておったが、成る程合楽のご信者さんげなと云う様なものがなからなければならない。宣伝をして下さったけれども宣伝とは裏腹で反対の事であるならば、そして示現活動をしているならばそれは「神を商法に使うて居る様なもの」おかげも頂かれんのに、おかげを頂かれる様に云うておるのですから。
このご理解から言うと、例えば金光様のご信心でも、それであっても唯教えが素晴らしい、皆素晴らしいならばおかげも素晴らしいという様にならなければダメだ。教えは素晴らしいと云う事だけを、売物にしてるような事では、それは「神を商法にしている」のと同じ事今日は、いうならば、私は決めつけて今日は云いたい。金光様の教えは素晴らしか、どの人も助かり、死後の安心子孫の繁栄を説く宗教ですよ。金光教は。これを例えば願わない者は誰もいない、現実の助かり死後の安心まで出来る。
しかも子孫までも繁栄して行くような、いうならばそれに例えば、こんな事そうであるならば、もうそれこそついて来にゃおられない、これは人間の誰しもの者の願いなんだから、ところが実際は、何物も人間が助かってござらん、すぐ腹が立っしゃる、すぐぷりぷりさしゃる、悔まっしゃる。あの人の仰ることは、信心してる者とは云われん、ということでは現実に助かりを頂いてない、心の中に喜びを、本当に魂を清めていけば、此れほどに有り難うになっていけるのだから。
これがこのままこの世からあの世へ通っていけるのであるから、あの世でも安心のおかげが頂ける、極楽のおかげが頂けると、確信が持てるような内容、成る程こういうものなら、こういう徳というか力を受けていける。成る程これなら教祖が仰るように子供にも孫にも伝わって行くだろう、事実伝わって行く事実を私共が実証して、証を立てていけれるような、信心をやはり頂かなければならないと言う事です。
そこで私は思いますのですけれども、何故そんなら、神様が合楽に来て、それこそ炊飯器の宣伝ではないけれど「今合楽に見えれば、ぽかぽかの暖かいご飯が頂かれますよ、どういうおかげでも頂けん事はないですよ」神様が宣伝しておられるのは、何故かと言う事を知らなければならん。今合楽で助かっているような助かり方が、人間が助かる形の上にも助かる、本気で魂を清めさして頂く事に、専念さして頂くそういう信心を、神様が今宣伝して下さっておるのは、いうならば、地球上の人間の危機です。
いわゆる寒天危地です、その寒天危地のあまりに神様がいま、合楽におい出て合楽宣伝をいわゆる、示現活動を神様が先頭に立ってなさって下さっておられるんだ。どこを他にいたっちゃ助からん、教えだけは素晴らしかばってん助からん、この世では仕様がないから、あの世で極楽に行く事を、一生懸命信心しなさいという位のことしか云いきらん。ところが合楽の場合は、そうではない。
信心が分かろうが分かるまいが、それがうたがっておろうが、おかげをやるとおっしゃる程しのおかげの、いうならば、25年間の貯まりに貯まったところの、光を与えていけれるものが、合楽以外の宗教または教会にないからだと思います。合楽ハワイの何何に牧場に来とります、そこが1番宣伝をするのにふさわしい、内容そこがもっておられる、合楽がそういうここならば、神を商法ではなくて実際におかげを渡しての宣伝であるならば、商法という事ではない。
神様もそういう寒い天ですよ、寒天危地を思われれば思われる程です。もう兎に角一人でも救わなければ、一人でもこの世に生き残る人間を創っておかなければと、言う事に神様が躍起になっておられると言う事が、今の合楽示現活動の根本になるのです。ただ一人二人の病気を治してやったと云う様な事ではない、その事によって人間が真実助かる道を歩いていく、いうならここから善に変わって行く。
そういう人間でなからなければ、もうこの世に生き残れない程しの、危機感が現在の地球上にあると言う事。いうならば、地球に死相が現れているという程しの、大変な時であるから、神様が躍起になって宣伝をなさっとられる、そういう気が致します。ですから愈々やはり、私共の信心信心成り行きを尊ばせて頂くとか、御事柄として全ての事が頂けれる、心それを和らぎ賀ぶ心というなら、この和らぎ賀ぶ心を。
やはり基にしてそして示現活動に「どうぞ参画さして下さい」と云うて願うだけではなくて、本気で踏ん切りを付けて熱と誠を持って、そこに踏ん切りを付けて。その活動に参画しておられてる方達はもう神様がちゃんと、お膳立てをしておって下さると言う事なんです。熱と誠で人を動かす程しの、私は示現活動に参画さしてもらい、そういう働きをいよいよ現していくおかげを頂かなけりゃならん。
そしてその内容というものは合楽に来てみたら成る程云われる通りの、おかげが受けられる、云われる通りの、いうならば合楽の人達は真善美の社会に住んでござる、貧乏のない世界に住んでござる。病気争いのない世界に住んでおられるという事実を、私共がいよいよそれを、合楽におかげを頂いている者の証として、印として現していかなければいけないと言う事であります。
どうぞ。
(以後別の御理解と思う)
・・・・連れてそれで早速向こうにに行ってくださって、いろいろ話を帰ってきて下さった、帰りには日田の料亭でみんなお食事を呼ばれて帰ってきた「日田のおばちゃまにえらい迷惑懸けたね」というた事でした、夕べ遅く帰ってまいりました。
ここにお願いに参りました時、丁度御神米ノ包装紙が一つなかった二台の車で行くから二台に下げようと思って、それで交通安全の御神米のふくろあったからそれに一体は入れ、一体はここにあった御神米の包装紙に、その時にふっと感じたですね「一つには交通安全の、ね、御神米が下がった、一つには普通の御神米が下がった」
昨日帰らせてもらって、交通安全の御神米はどの車に乗っておったか、宮崎さん処の苦悩?買っていった、恵美子さんがそれを置いて、それの方が交通安全の方、片一方のほうが交通安全じゃない御神米であると云う事。
さあ神様が今申したように、痛い思いをさせてでも分からせようととする働きが分かるでしょうが、今はそういう時代なんです、「分からんならしょうがない、私が云う事を信じんなら仕方がない」と云うのじゃなくて「どうでも信じて下さい」この実証この証を見せながら、皆さんに云うのであるから信じん訳にはいくまいが」というて信じてもらう為一生懸命だ。
今日は普通では神様から直接頂いたこと、これは例えばお互いの心を持ったらすんなら、それこそ合楽の先生は誇大妄想狂と云うでしょう、けど誇大妄想狂にするも生神様にするも皆さんの信心一つなんです、そこに懸けられているんです、
生神の働きをここに現さなければね、それこそ、いけない時勢時代になっておることなんです、ですからどうでも信じて下さい。
お参りしてみて信心なら痛い思いをさせてでも、今の子供たちではないですけれども痛い思いをさせてでも分かる、成る程親先生がウネリをしたら今までカってない不機嫌な顔をしとったがこれはちょっと考えなければいけなかったなあ。
合楽の1番素晴らしいのは一つの事が許されてなされる時には必ずリズムが出る調子がでてくる、そのリズムに乗っていくという生き方を体得しないといけん。
親先生のお願いをして頂いとるけん大丈夫といったような甘い考えはいけない、お願いをする、許されてそしていうならば、リズムに乗った生き方を、いうならば前を走ってる自動車のナンバーの中からでも、ゴーストップの赤の中からでも「ちょっと調子よくいかんぞ」というようなものを頂きながら行けれる処を体得さしてもらわなければ、合楽の本人が1番合楽流の素晴らしい処なんだからあんた達も体得せにゃいけん、これは今朝から直子と幹三郎に話した事でありました。
そして今日のご理解を頂いて「痛い思いをさせてでもいうならば、合楽のご信心を頂いてる人は打って一丸となって合楽示現活動に参画させなければならんと強い厳しい働きをご理解の中から感じるのです。
でそこん処をはんしん?一つ、皆さんは疑うてもどうしてもおかげは下さる時代ですけれども、参画さしてもらう人達はそれであってはならん、それを信じておかげの泉を一つ売らせて頂くでも、これを読んでおかげを頂けない時には百円戻します。
昨日一昨日でしたか、そこの中村さんなんかは、おかげで二十冊売れましたお客さんに、そして又来なさると「どげんな風でした」と云うて「この次も買うて下さい、あげるのはよかばってん、あげたぶんはあなた方がおかげ頂かんけ、百円頂きます」というような、そういう例えば確信を持ってみなさんが示現活動に、合楽でご信心を頂いておった方達は出なかなければいけないと言うことなんです。
朝参りの時間がずれずれになった、いうならば自力から他力、自力の時代はさあ断食した、もう遅うなったら、ご無礼ができたら一週間断食しますとか、なんていうような事をしよた時分はシャンとしとったけれども、それを取ってしもうたら途端に本当にここだけは大事にしなければならないという処まで疎かにするような処を感ずるです、それではね合楽示現活動に参画できるような心から燃えてこないですそれでは、ね、シダゴダの信心では「燃えてこないです、分かっておるけれども燃えてこなければ人にお話しすることも出来ません。
ですからそういう時に当たっております合楽の信心ということは小さいですけれども、いうならば、「合楽という歓天喜地、神も助かり氏子も立ち行くという意味での合楽」ということは大変なことなのですからその活動に参画さしてもらうおかげを頂きたいと思います。
今日はご理解20節から「金光大神は天地金乃神様直伝のお話しを皆に聞かす」と仰っとられる。
今日は金光大神のお取次によってやはり天地金乃神様直伝のことを、しかも赤裸々に私皆さんに聞いて頂いたつもりでございます。 どうぞ。
深い深い広い広い私共には限りが付かない程し、先ず単純な処から入って天地の神様いうならお心をタッチするというおかげを頂く以外にない、いよいよ信心分からせて頂くところに至って来る時、本当に合楽を現していけれるというような、・・?ですよ、現していけれる神様のご信用を頂くという事の上においては私共が分かっても分かっても、まーだ分からんことばっかりが本当は天地の親神様の御心なんです。
・・・私の行動いうて・むかっとられたけれども、実を言うたらまーだまーだ神様の御心の深さというものはそれこそ分からないことがどれぐらい多いか、そこは私共が一生懸かってでも究めていく否一生でないあの世にも持って行ってでもいよいよ究めに究めていかなければならない程しの金光様の信心は、もうこの頃は神様が分かんごつなったという人があるおかげを頂かん。
神様が簡単に分かるごつ神様なら大した事なか、どれだけ究めても究めても、実を云うたら分からない程しのものだからこそ信心に飛躍をしてゆく事が出来る、そういうそれこそ、デリケートというか難しいというかそういう内容をもっておられる天地金乃神様であるけれども私共子供のように単純にもうそれこそ神様がもう・・・・?大おかげを下さる神様それこそ、身を修めてくださる孫におやつをやるようなものです。
天地金乃神と申すことを言うことは信心生活、そういう健全性と深刻牲を兼ね備えておられる神さまを天地金乃神様と申して・・・・録音消える・・・・・・。